DS版FF4

相変わらずのんびりと進めています。ドラクエ4とは違って操作性が全体的に軽いとは言いがたい部分もあるので、どうせならといっそ割り切って、入念にレベルを上げながら、じっくりと進めているのです。

さて、FF4における印象深いイベントというと幾つもあるのですが、特にそれが際立つものとして、主人公セシルのジョブが暗黒騎士からパラディンに変わることではないでしょうか。
海洋上でリヴァイアサンに襲われた一行はちりぢりとなり、セシルは一人、とある海辺に打ち上げられます。ふらふらとさ迷い歩くと、そこはかつて赤き翼団長だった頃、クリスタル強奪のために襲撃した場所。あのミシディアであったのです。

暗黒騎士であったセシルは自分の理念と相反するジョブに就いている事に負い目を感じていたのですが、それが明確に自分の存在意義を疑わせるに至った切っ掛けが、あのミシディア襲撃の事件でした。
ミシディアの村民はセシルにもろに反発心を抱き、毒を盛ったりトードをかけたりとやりたい放題ですが、セシルはそれだけのことをしたという事です。基本的にロープレの主人公は、プレイヤーの感情移入を削がないために、間違った行動はしないように、或いは間違った行動をしてしまうような事態にならないように作られているのですが、FF4は古いゲームでありながらそういったロープレの常識に対しての逆説を唱えているというか、一種のアンチ的な表現手段が使われているのですね。

さて本編のシナリオですが、ミシディアの長老は出来た人物であるため、憎いはずであるセシルを信じ、試練の山でパラディンになることを薦めます。しかしセシル一人で行けとたきつけるわけではなく、パロムとポロムをお供につけてやる当たり、長老の人格者ぶりが伺えます。
そしてセシルは山頂で自分自身である暗黒騎士時代のセシルの攻撃に耐えることで、パラディンのジョブに開眼します。
ここでひとつ思うこと。暗黒騎士時代の自分を倒すのではなく、『攻撃にひたすら耐える事』である部分が重要ではないかと思います。
倒すという事は、つまり相手の存在を否定することです。相容れないものであるから排除する。しかし、過去の自分を倒すという事は、過去の自分の罪をも否定するということに繋がります。セシルはパラディンになりましたが、それによってミシディアの町を蹂躙しクリスタルを強奪したという罪が消えるわけではないのです。(暗黒騎士としての罪は他にもミストドラゴンの件とか、色々あると思います)

パラディンになるということは、過去の自分の罪を認めること。しかし、認めるだけでは単なる開き直り。認めたとしても「僕は僕だ」などと暗黒騎士のまま開き直ることは、理解はしていても償いにはならない。間違っていた自分に決別し、自分の生き方を一度白紙に戻すことで償いとなり、パラディンとして行動していくことで、「もう僕は間違わない」ということを少しずつ証明していけるのではないかと思います。そうしてようやく、ミシディアの連中も、セシルのことを「少しずつ」許し、認めていけるのではないかと思うのです。
(母親を殺されたリディアがセシルを認めたのは、似てるけどまたちょっと違う理由だと思うので、そのうち別個で語ろうかなと)

パラディンになる事。いかにもゲーム的な演出でありながら、現実にも通ずるものがある奥深いものだと感じます。実際は暗黒騎士→パラディンなんていう極端な事例は存在しないでしょうが、例えば仕事でミスをして迷惑をかけたなら、ミスをするような仕事方法を見直し、そこから正しい手順で仕事をしていくことで、「もうミスはしません」という誓いを立てる他にないわけですし。もちろん手順の見直しの前に、素直に「すいません」という反省心が必要不可欠です。気持ちと行動の、そのどちらが欠けても駄目なのです。