血の雨

最近ほんと雨が多い。ということで、ついかっとなって雨SSを書いてしまった。一応しまゆみです。所要時間二時間くらい。メッセの片手間にとも言える。なんだか主題の曖昧模糊としたSSになってますが、なんでもない日常SSとして読めるハズ。控え目に続きを読むに格納しておきます。


『血の雨』


 たまたまの偶然なのだが、その日薔薇の館にいたのは、私こと福沢祐巳と、藤堂志摩子さんのたった二人だった。その日は昼過ぎからあいにくの雨で、生徒たちが帰宅する時間になっても止まずに降り続けていた。薔薇の館は本来仕事をする場所なのだが、たった二人しかいないのに仕事というのも、何だか妙な話だ。ゆえに、二人でなんとはなしにのんびりとした時間を過ごしていたのだが、窓際でじっと雨を眺めていた志摩子さんが、唐突にこんな事を切り出した。
 血の雨って知ってるかしら、と。


「……血の雨? 血っていうとあの赤い?」
 ええ、と志摩子さんは窓の外に視線を向けながら頷く。血の雨というと、血のように赤い雨なのだろうと想像は出来るが、あいにく祐巳はその存在を知らなかった。正直に知らないと答えると、志摩子さんは「そう」とだけ小さく呟き、また雨降りを眺める作業に没頭する。彼女との付き合いも比較的長く、彼女が必要ないことをぺらぺらと喋り倒す人間ではないことはもちろん知っているのだが、ここは流石に、少し補足説明が欲しいところではある。
「あら、ごめんなさい。私ったら」
 別に志摩子さんに他意はなかったらしい。窓際にいた志摩子さんは祐巳のそんな意向に気づいたのか、風でレースのカーテンがふわりと揺れるみたいに振り返る。
「私はコーヒーを飲むけど、祐巳さんは?」
「あ、うん、ありがとう。じゃあ私もコーヒーをお願い」
 志摩子さんは小さく笑うと、羽が生えたような足取りで流しに向かう。彼女の華奢な後ろ姿をぼんやりと眺めながら、やっぱり掴みどころのない人だな、とあらためて実感する。雨は変わらず降り続けている。
 数分後、笛吹きケトルの鳴る音が聞こえ、それから直ぐに志摩子さんは会議室の方に戻ってきた。彼女が両手で持つトレーの上には、湯気を立たせるティーカップが二つ載せられていた。
「お口に合うか分からないけど」
「ありがとう志摩子さん」
 仲間内──まあ山百合会メンバーは全員が仲間といえるが、特に祐巳たちに限って言えば、同学年同士のみで飲み物を飲む場合、例えばソーサーなどは省略されるのが常だったが、志摩子さんの淹れてくれたコーヒーは、ソーサーとスプーンは勿論、シュガースティックとミルクまでフル装備だった。実はあまりコーヒーは飲まない祐巳であったが、折角だから砂糖からミルクから全てを加えて頂こうと思っていたが、志摩子さんはどうやらブラックで飲むらしい。
 雨の降りはそれなりに激しく、旧時代的な造りである薔薇の館の会議室には、ひっきりなしに雨の音が響いてくる。ロケーションとして決して良いとは言えないが、たまにはこういうのもいい、と祐巳は熱いコーヒーを頂きながら思った。

 血の雨。どうやらそれは幻想の一種らしい。人のココロの中の悲しみや苦しみを溶かし、孤独や空虚を埋める。ふつう、雨に打たれているとそういう感情は倍加されるものという印象がある。確かに今日のような雨に長々と打たれていれば、悲しみや苦しみという感情は忘れないにしろ、その感情を形成した原因についての印象は薄らいでもおかしくないような気がするが、それは雨の所為で思考能力が低下するからじゃないのかと思う。
 だが、その”原因の除去”を恣意的かつ故意的に、加えて恒久的に引き起こすのが血の雨たるものなのだと、志摩子さんは上品にコーヒーを飲みながら、奇妙に静かに語った。
「悲しみや苦しみだけが残っちゃうんだ。実際にそういう状態になったら、何だか落ちつかなそう……」
 志摩子さんは小さく頷く。そんなのあるわけないよと実は言いたかったのだが、志摩子さんはそういう答えを望んでいないように思えた。理由はよく分からないが、奇妙な悲しみ、喪失感だけが胸のうちに残る。確かにそういう気持ちを感じえる事はある。例えば学校行事の直前など、遅くまで薔薇の館に詰めて山百合会の仕事を励行することがよくあるが、不意に「どうしてこんな事をしているんだろう」と奇妙な喪失や絶望を感じることは正直、なくはない。例えとして適切かどうか分からなかったが、志摩子さんにそれを伝えてみた。
「……私もそういう風に感じることはあるわ。山百合会のことに限らずとも、ね」
志摩子さんでも、そうなんだ」
「だから私たちは、普段から知らぬ間に血の雨を浴びているのではないかと、そんな事を考えてしまったの」
 原因があるなら取り除けばいいが、原因の知れない悲しみや苦しみからは逃れようがない。それを長々と抱えて生きていくことは、精神衛生の面で好ましいとはきっと言えない。
 そういえばと祐巳は思い出していた。父の経営する福沢設計事務所の従業員の一人が、少し前に”うつ病”にかかって入院、休職することになったと母親と話しているのを聞いたことがある。父曰く、「仕事はちゃんとこなすし、対人関係も良好で人当たりの良い人物」だったらしい。だからそういう病気にかかるのは意外だった、と話していた。
 現代に降り注ぐ血の雨。原因も分からずに、ただただ悲しみだけが積もっていく。それは、とても恐ろしいことだ。祐巳はコーヒーを啜る。その甘さと暖かさに舌がほころぶのを感じるが、得体の知れない悲しみや苦しみが満ちている現代には、そういう無条件の甘さが必要なのだ。そう、きっと。

「そろそろ帰りましょうか」
 コーヒーを飲み終えて少しして、志摩子さんが切り出した。雨は少し小降りになったようだが、他のメンバーが来訪する気配もないし、今から仕事をするのは実に中途半端だ。取り立てて忙しい時期でもない。帰れるときは帰って、ゆっくりしよう。
「そうだね」
 二人でコーヒーカップなどの片付けをして、薔薇の館を後にする──と思いきや、志摩子さんがどこか落ち着かな気な雰囲気。何か言いたそうだが切っ掛けが掴めない、そんな感じ。
「どうしたの?」
「えっと、実はね」
 志摩子さんは少し困ったように頬に手を添え「実は今日、傘を忘れてしまったのよ」と、そんな事を切り出した。漫画ならばここはずっこけても良い場所だ。
「それじゃ、一緒に帰ろっか」
「……傘、入れてもらえる?」
 もちろん、と祐巳は大きく頷いた。